構文から離れて

シェアする

久しくこちらのブログを更新しなくなってから、4か月がたっていた。最近はもっぱらnoteに書くことが多い。媒体ごとに気の持ちようとはずいぶんと変わるもので、noteはずいぶんと張りきって書く。よって、このように日々のあれこれをつらつらと書くのが、幾分とまどわれてしまうのだ。

最近は媒体ごとに「構文」的なものがあると意識されることが増えた。たとえば、Twitterには「Twitter構文」なるものがある。「箇条書きで分かりやすくポイントをまとめる」「1文目にインパクトのある要約を」「ツイートはわかりやすく締める」などなど。SNSは昔から好きなので、「Twitterフォロワー3万人の〇〇に聞く、Twitterのコツ」みたいな記事をついくまなく読んでしまう。昨日読んだインタビュー記事で「特に特別なことはしてないんです。Twitterでやるべき投稿のポイントをおさえて投稿していっただけです」とTwitter運用をしている人が答えた記事を読んで、なんだかがっかりしてしまった。「その人なり」の意見や言葉を求めていつも見ているのに、「自然と」決まった型におさまっていることに、だ。もちろん、それでもオリジナリティはそこにあるのだろうけど、大好きなミュージシャンが「この曲は最近のヒットソングの傾向にそって作りました」と言われてしまったときのように、どうしてもポジティブには受け取ることができない。

『えいやっ! と飛び出すあの一瞬を愛してる』を読んでいると、つくづくそんなことを思う。

どこまでいっても文章にはその時代、文化のバックグラウンドから生まれる型がある。書き手としては構文自体が好きとか嫌いとかいう話ではない。ただ、受け手としてはできるだけ芯を食ったものであってほしいと願うだけ。

彼女の「つらつら」と語りを交えた柔らかい文章を読んでいると、うらやましくも思えてくる。やっぱりそのときどきにしか書けないものはある。そんな二つの思いから、久しぶりにこのブログのWordpressの画面を開いて書いている。はせ おやさい さんの言葉を借りれば、「文章は筋トレ」。書けるうちに、めいっぱい書いておこう。