「どちら側へつくか」が試される中で。

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久しぶりに、ぼんやりとした1日を過ごした。朝起きて、本を読んで、宇多田ヒカルのライブ動画をNetflixでみながらなすの揚げ浸しとみそしるを作って、ずっと観たかった映画『万引き家族』をみた。そんな小学生の日記をそのまま引き伸ばしたみたいな1日だった。ここのところはちょっといろいろなことが重なっていたから、ぼんやりできるような方向へと、身体をもっていくことにした。

今日はニュースの絶えない1日だった。お笑い芸人の宮迫さんの記者会見、レペゼン地球の一連のパフォーマンス、などなど。そして大きなニュースであればあるほど、人は「どちら側へつくか」を試されているような気がする。

片っぽにつけば「もうそんな人とは縁を切る」と言わんばかりに言い立て、もう片っぽにつけば「どうだ、正しいだろう」となる。「どっちつかず」でいることは、ケンカの間に立つとやっかみを受ける面倒にあってしまうので、楽なように見えて、楽ではない。迷いに迷った人は、正しそうな方へつくか、自分の信じる方を確かめるようにしていずれかの方を選ぶか、それでも迷う人は「何も言わない」となるか。

「僕はこうおもう」だけでは、もはや声には出せないことに気がつく。「僕がおもう」ことは、「僕らがおもうこと」「あの人たちがおもうこと」になるからだ。

それだけではない、きっと物見遊山に楽しむ人もいる。「野次馬」もいるが、「まあ、そんなこともあるよねえ」と、悲観的におもわない人もいる。スタジオジブリの鈴木敏夫さんは、「楽しんだらいいんじゃないかな。ネットにはネットでしか生まれないやりとりがあるんだから」みたいなことを、ネット上の過激なやりとりに悲観する女性とのインタビューで話していたことをおもいだす。──つまるところ、どれも”正解みたい”なことばかりだ。

「何を、どう選ぶか」には、誰の声の影響を受けているのかを、しっかり見渡してみる必要はあるけれど、実際に声を出し、歩みを進めていくのは自分一人でしかない。目の前の選んだこと、動いた結果からしかその先はきっと見出せない。映画『万引き家族』の家族の判断基準は、”ものの正しさ”ではなく”人への希望”にあった。人に押し付けるものは、本当の正しさではない。ポジティブな選択肢を、すっと差出せるようになれたら、というのがせめてもの願いだ。