「暮しの手帖」という雑誌をご存知でしょうか。
この写真の雑誌「暮しの手帖」は1971年の冬に出版されたもの。創刊は70周年前にもさかのぼる、老舗雑誌です。
内容としては、ライフスタイル(暮らし)をテーマに、家事や生活で役立つ知識やニュースを届けているといったもの。
今回この雑誌を買って読んだのは、本日「黄金町アートブックバザール」の書店に行ったことがきっかけでした。
なぜ見つけたのかというと、現在横浜で3年に1度開催されているアートフェスティバル、「ヨコハマトリエンナーレ」の会場を目指して歩いている道中にこの本屋があったから。店内に入り、手に取って買ったのがこの「暮しの手帖」だったのです。
(ちなみにヨコハマトリエンナーレはだいぶよかった)
今回は、ふと気になって手に取ってこの雑誌に、僕が本を好きな理由が詰まっている気がしたので、その理由をいくらか書いてみたいと思います。
もくじ
「ひととなり」が分かる
「ひととなり」というのは、ひらたくいえば「その人らしさ」です。「ひととなり」というものがうっすらと見えてきてやり取りが生まれてきている、その瞬間に読書のおもしろさがあります。
書籍における「ひととなり」はどこにあるのかといういと、それは言葉の使い方、企画内容などに表れています。1971年の「暮しの手帖」には、今でもいろあせることのない、「おもしろい」と思えるような話がふんだんに詰まっていました。
とりわけ、言葉づかいがとても美しい。たとえば、表紙の裏にある、こんな言葉。
これは、あなたの手帖です
いろいろのことが ここには書きつけてある
この中の どれか 一つ二つは
すぐ今日 あなたの暮しに役立ち
せめて どれか もう一つ二つは
すぐには役に立たないように見えても
やがて こころの底ふかく沈んで
いつか あなたの暮し方を変えてしまう
そんなふうな
これは あなたの暮しの手帖です
すぐに役に立つこともあれば、しばらくたってから役に立つこともある。
そんな深く納得できるような、言葉の思想は、本書の随所に感じることができます。
同時代に数万人に受け入れられる美しさもあれば、50年後に10人にしっかり届く美しさもある。寿命は長くなっていそうなわりに、視線は手前に近づいてきてるという怖さを覚えました。
— 森園 凌成 / もりぞー (@morizooo0825) August 12, 2017
改めてですが、雑誌に限らず、まとまった話のある本には、その「ひととなり」というものがあります。
雑誌でいえば、「この雑誌(暮しの手帖)らしさ」という言葉で表現できますし、ウェブメディアでいえば、「このメディアらしさ」というように、僕らも普段からなんとなく感じ取っているものではないでしょうか。
そして、究極的には、その個人の内から湧いて出ているような言葉として感じられる、ということがその「らしさ」には詰まっています。
「本を読んでいると、まるであの偉い人とも対話をしているようだ」
本が好きな理由の一つは、そんなところにあるのかなと。
ボリュームのある文章を一つひとつ追っていく中で、見えてくるその著者の「ひととなり」がまるで目の前にいるかのように浮かんできていることに気がつきます。それは、対話のようでもあります。本を読むという行為は、決して一方的に読まされているのではなく、むしろ能動的に読んでいる、というものではないでしょうか。
能動的に読むことで、見えてくる、その書いた人の、「ひととなり」。
どんなに偉い人が書いていても、読書を通してその人と直接話しているような気持ちになって、少し恥ずかしくなる。そんなことの繰り返しの中で、僕は本を好きになっていったのだろうということを、「暮しの手帖」を読んで思ったのです。
なぜなら、今までイメージすらなかった、46年前の人の「ひととなり」というものに出会えたからです。
当時の人の気になることや、社会の変化を受けて、ひとりごとのように思うこと。
それらの一つひとつの連なりが、1971年当時の「暮らし」を自分の眼を通してみているような感覚を生んでいる。ーーそう気づいたとき、僕はこんな風に「ひととなり」に触れられることが好きなんだなあ、ということを思いに至りました。
別に本じゃなくてもいい。大事なことは、「自分そのもの」があること。
最後にダメ押しで、こんな文章を発見しました。
ことばは、自分の気持ちをわかってもらうための大切な手だてですが、もう一歩、深く考えてみたら、ことばは<自分そのもの>ではないか、とさえ思います
(『暮しの手帖』(165頁)、「言葉というもの」より)
これまで書いてきた内容と、本当に似ているなと。
言葉には「自分そのもの」がもはや存在しているんじゃないか、という点については、「文章を読むことでその人らしさを感じることができる、それが楽しい」というこれまでの僕の話にもつながるところです。
今回は「本が好きな理由」について書いていますが、別にこれ、本に限った話ではありません。それはたまたま本というパッケージは文章が多いからか、それだけ熱量があって書かれているからなのかはわかりませんが、そのような「ひととなり」が見えてくる可能性が現時点では高い、それだけです。
なので、Kindle本も好きですし、なんならSNSもウェブメディアの記事も並々ならぬほど好きです。いずれにしても、言葉を通じて深い洞察が得られるような、本当の意味での対話は本当に面白く、価値のあるものであることには変わりありません。
(実際に人と直接話ながら、そんなことができたらいいのだけれど、、笑)
本当の声の価値
少し話はそれますが、今「口コミ」の価値が高まっています。女子高生には少なからずおいしいお店を調べるときには、Google検索ではなく、「Twitter」や「Instagram」のアプリ内で検索する派だという人がいるいいます。つまるところきっとそれは、だれかの思惑や他意による声ではなく、本当の声が聴きたい、という気持ちによるものなのだと思います。
「別にSNSにすごい思入れ込めて本気で書いてる人なんて、そんなにいないでしょ」というレベル差の議論は今回はわきに置いておきますが、「本当の声が聴きたい」という気持ちには個人的に100%同意です。完璧なものより、熱量の高いもの、エモいものを、僕はどうしても好きになってしまいます。なんでだろうね。
おわりに
いつの時代の人でも、どこの人でも、言葉を通じて”ひととなり”とやらに出会える。
そんなことのすばらしさを、40年以上も前の雑誌を読んで感じたのです。
それと同時に、寿命は長くなっているのに、見ている先は以前より近くばかり見るようになってしまっているのではないか、ということに思い至りました。
もちろん、すぐに自分の思いが100万人に伝わることも大事だけれども、それと同じように何十年後にもわたってその当時の言葉が人の心を打ち続けることも大事なのかもしれません。
50年後も100年後も人の琴線に触れる言葉が紡げたら、どんなに誇らしいことだろう。
P.S.
紙の本にはコミュニケーションがある
と語るのは、キングコング西野さん。紙の本について限定はしないと書いたばかりだけれども、ポイントとしては大変によく分かる。
自身のブログで詳しく触れられていました。サイン本とかもうれしいですよね。
>「本が好きっ!」
よければこちらもチェケラ
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