誰かに見られることを前提としない、自分へ送る言葉を、歌を。

ふと目につく言葉や歌の多くは、誰かに見られることを前提としている。もちろんそうしたパブリックに向けて紡がれたものを、僕はうれしく、時には感動しながら受け取るのだけれども、ときに「見られている”誰か”」をその表出から感じすぎることが増えていることにふと思い至る。

感動するものの多くは、ずいぶんこじれてしまっているか、こじれたうえにそれを「見られる」という舞台の奥からの視点まで昇華させたもののどちらかだ。そして、それをよりつぶさに見ると、自分やひとりの人に向けられた思いが起点となっているような気がする。

一般的な話に戻そう。今、多くの表現はすべてすぐに一定多くの人に届けることができる。昔であれば個人的に書いていた日記や、非公開のままとりためられているようなブログや、部屋で弾き語られ続ける歌も、それらは100%すべて自分や、自分の思うひとりの人にきっと向けられていたのだと思う。

そんなわけで僕は「日の目を見ない」と言ってはあれなんだけれども、こだわりにまみれた、とにかく自分への言葉が向けられたブログや、手記や、SNSアカウントを時折さがしては見てしまうことがある。誰かに見られないことを前提とした言葉を探して。

また、最近会った方はしきりに「発信しなければ」ということを口にしていた。僕は「発信しなければ、なんてそんな無理せずとも大丈夫ですよ」と答えるしかなかった。

また、ある人のブログをのぞくと「毎日がんばって発信しています!応援してください!」なんて言葉があった。もちろん毎日更新されてく楽しみにしているブログやコラムは無数にあって、そこで書かれる方の楽しみを受け取るように僕は日々楽しまさせてもらっているのだけれども、その方のブログには、どこか見られる目を気にするあまり生まれている、「憂い」のようなものを多く感じてしまった。事実「大変」という言葉が3つ4つと並んでいて、その「憂い」を応援するのは、少しばかりはばかられてしまうのものだった。

そんなわけで、「誰かに見られるつもり」がすぎないようにしたいものだ。ただただ、誰かが向けたその人自身への言葉や、歌を、もっとたくさんみてみたいし、きいてみたい。そんなことを、ふと友人の撮ったすてきな写真が淡々と並べられたポストを眺めながら、ふと思いました。