クレイジーに行こう。なぜ自分は「得体のしれないもの」に惹かれてしまうのか

あてもなく書くということ。

そんなことがある種、うらやましく思うと同時に、なんだかやってみよう、そう思ったのである。

きっかけは、今日の坂口恭平さんのライブ、「坂口恭平劇場」。

彼は、小説を書き、評論文も書き、メディアにもときには寄稿し、ギターをかき鳴らして弾き語りをし、絵を書いて画集を売り個展も開く、いわゆる「多才」な人だなあという印象をよくもたれている(ように感じる)。

彼との出会いは、『独立国家のつくりかた』という、中央公論社から出ている新書を手に取って読んだときだ。その本には、思い切ったことが書かれていた。それはきっと、思い切って生きていくにはこういう風にやっていこうぜ、というような内容で、読んでいた僕も、そして他の読者もきっと、「思い切って生きていこうという気持ちになった」というような本だっただろう。

驚いたのは、それからだ。それは、なんとも得体のしれないものばかりを彼は表現していたからだ。

続編の著作『現実脱出論』を筆頭に、熊本で「新政府」たるものをやっていたり、自分の電話番号を公開し「自殺したいと思った人は電話をかけてきてね」と言っていたり、躁鬱気質な性格から時にはなにもしたくないという期間が訪れているようであったりと、「こんな人もいるのね」と、びっくりすることばかりだった。

でも、どうだろう。そんなに驚いてもいない自分がいた。

「そんなの、当たり前じゃないか。だって、僕だってそうだもの。」

どれだけ頑張って多く見積もっても、あらゆる方面において彼ほどではないことは承知の上だが、僕は定期的に「気が狂う」。

「いつも狂っているじゃないか」という方もいるだろうが、ひどいときはそれ以上だ。「ちくしょう何もやりたくねえ」と一日中ヘッドフォンでレッチリの2006年のフジロックのライブ映像をリピートし続けたり、カフェインを摂取したら3日間不眠におちいったあげく1週間寝込んだり、なんだか精神や宇宙といった大きなものに飲み込まれそうな気持ちになって1日中そんなことばかり考えている日があったりと、それはもう「クレイジー」

僕が物を書いたり、歌を歌ったり、やたらめたら仕事ばかりしているのは、そんな気を紛らわすためでもある(それ自体の楽しみはもちろんあってこそのものだけれども)。とりあえず動かせる手や足を動かし続けることは、大事な安定材料なのだ。だからきっと、止まったら死ぬ。気が狂っているのは「正常に」止まっているからだともいえる。「自分の自堕落論」についてはいくらでも書けるから今日はせめてこれくらいにしよう。

坂口恭平さんについて僕は分かるという話ではない。他人なんていつまでたっても分かりっこないことは確かだ。だけれども彼のことは、なんともつじつまの合ったもののように感じる。ーーただそれだけが気がかりで、こんなことを書いているのだ。

傲慢なことを言おう。「なんだ、僕にもできそうじゃないか」ということを。

そして、感謝を言おう。そんな風に、軽やかな気分にさせてくれたことを。

ジャコメッティはこう言う。

All that is not so very much,
All the painting, sculpture, drawing, writing or rather literature.
All that has its meaning and nothing more.
Trying is everything, how marvelous.

”Trying is everything”ーー試してみることが全てだ。そしてそれはすばらしい。

そして、坂口恭平さんはとある日のツイートでこう言う。

長い目だけ見て仕事する。これが仕事の鉄則である。長い目で見てごらん。大概のことはなんでもよくなるよん。そのためには自分がこれと信じることだけやらないかんし、自分が好きなこと以外は触れちゃいかん。長い目で見ること。さすれば時がくるよん。どうせいつかうまくいく。目先はすべて失敗する。

最後に、ジャコメッティのこの言葉で終わりにしよう。

人間の誇りの支えになっている人をこそ讃えたい。

そんな気分だ。

これだけの言葉を携えていけば、もっと楽しいことが待っているだろう。