”疑問”と”問い”は別物。いったい普段何を僕らは「認識している」のだろうか?

創造性とは何か。なぜそのような問いが生まれたのか。

「創造性とは何か」ーーここ最近、個人的に気になっていた問題だ。そんなに抽象的な話ではない。ふと疑問に思ってからというもの、問いを投げかけずにはいられなかったのだ。

きっかけは「あなたはクリエイティブだね」という、どこかで誰かが言っていた言葉に違和感をもったことだ。決して私に言われたわけではなく、他者から他者へ言われているところを見たのである。しかも頻繁に。そこでいうところの創造性と、私がクリエイティブだと思っているクリエイティブとが、同じものとして感じられなかったのだ。

最近、クリエイティブという言葉は、こんな時にもよく使われる。「AI時代において、人間がこれまで担ってきた仕事の多くが代替され、なくなっていく。そんなとき、人間に求められる能力は創造性(クリエイティブ)だ」、と。

それはすなわち、機械は新しいものを作ることはできないが、人間の創造性は0から1を生み出すことができる、という認識が背景にはある。

また、クリエイティブだとよく言われるのは、絵や音楽といったものから、モノづくり、ウェブサイトのデザインなど、「作品」という類の名前がつくものだ。美術大生がロゴを作ったり建築物の模型を作れば、それは「クリエイティブだね」という表現の称賛を受ける。

しかし、クリエイティブなものはそのように作品として可視化されたものしか指していないのだろうか。私が思っているクリエイティブとは、作品という形にとらわれないような、もっと大きなものを意味している。

だから、「クリエイティブだね」という評価は、あまりにも限定された響きをもって感じてしまうのだ。あなたが「クリエイティブだね」というとき、果たしてそれは何を指して言っているのだろう。

そんなわけで、「創造性とは何か」という、難題が自分に降ってきたのである。

創造性のカギを握る、「認識する」という行為について

「創造性とは何か」という疑問には、最初、どのような問いをぶつけたらよいのか分からなかった。そもそもが大きすぎる話ではあるし、なんでこんなことを疑問に思うようになったのだろうという不思議さもあった。

そのため、最初は「クリエイティブなものは可視化されたものしか指していないのだろうか」という問いを投げていた。その後、モノには思想があるのでは、ということを思った。

『WIRED』のvol.28「ものづくりの未来」を読むと、そこには、「ものづくりが単なる経済行為ではなく、私たちが生きる世界を把握し、認識する方法でもあるならば」という一文があった。モノをつくる、という過程は特に規定のものがない状況において、まず私たちは認識することから始まる。

例えば人間の「手」を手と認識することなく描き始め、気づいたら手になっていたということがないように、私たちは認識があってから行動し、目の前に形を作っていく。ものづくりもそんな風にして、さまざまなデザインをまとった形ができていくというのだ。

認識が変われば、できあがるモノの姿も一変する。プロダクトデザイナーのは下記のこんな問いによって認識を変えた。

「人は自分の家に価値と個性を求める。もしテレビがその願いを叶えることができたら?」

という問いは、絵画を壁に立てかけて飾るように、空間と一体となったテレビを生んだ。

「ポケットに入れたカギや毎日の戸締りを、こんなに気にしなくてはいけないのはなぜだろう?」

という問いは、私たちや私たちのもつスマートフォンを認識してカギを開けられるシステムを作り、いつも頭の中の数パーセントを占めているカギという物体に邪魔されることがなくなった。認識することで、その表出される姿かたちは多様に変化するのだ。

(August Smart Lock)

つまり、クリエイティブのカギは「認識」にある。認識が生まれることで、新たな創造物も生まれる。認識が研ぎ澄まされ、クリエイティブな思考になれば、行動という表出も変化する。刺激のあるところにいると、落ち着きなく、日々の変化も激しくなるように。

どう問いを変えたのか

改めて最初のシーンへ戻ろう。私には「創造性とは何か」ということに疑問をもつシーンがあった。制作物などの形で表出された結果としてのクリエイティブに意識がフォーカスされすぎて、認識における多様性へのフォーカスが失われていることに少なからず危機感を感じたのだろう。

そこで私は「クリエイティブなものはそのように可視化されたものしか指していないのだろうか」という問いを持った。しかし、それは結果としてのクリエイティブにフォーカスが相変わらず向いていただけだった。いわば視点の近いところから悩んでいたために、同じような問いしか生まれなかったのである。

では反対に、認識の方にフォーカスしたら、どうなるのだろう。すると、創造性につながる問いには2種類あることに気がついた。それは「疑問」と「問い」は別物だということである。坂口恭平氏も「何か『疑問』を持ったらチャンスだ。そこから『問い』にまで持っていく」と著書『独立国家の作り方』で述べている。

「疑問」は、無意識に生まれる違和感のことである。カギをなくせば「カギに毎日振り回されるのって、ヤダなあ」と思うし、先輩に注意され過ぎれば、「なんでこの人はいつも怒っているのだろう」と自然に誰しもが思う。

しかし、「問い」にはある種の思い切りが必要になってくる無意識からは「問い」は生まれない。だから私たちは「問い」に意識的にならなければならない。「カギに毎日振り回されるのって、ヤダなあ」と思っていては、その後もカギのことを気にし続ければならないことは変わっていかない。しかし、ベアールはそこで「問い」を立てた。「ポケットに入れたカギや毎日の戸締りを、こんなに気にしなくてはいけないのはなぜだろう?」という問いを。

「思い切り」と表現したのは、「問い」はそのように断定的で、かつ限定的な物言いだからだ。しかし、そのことこそが「創造する」ということではないだろうか

「問いが生まれる瞬間」に創造性は宿っている。クリエイティブとしての表出は、いかに、どのような問いを生み出すかにかかっているのだとも言える。

おわりに

そのように問いを反対の視点に立って変えてみることで、私は「クリエイティブとは限定されたものではなく、その問いが生まれるという瞬間に根源をもった、より多様なものである」という風にある種の安堵をもって解釈し直すことができた。もしかしたら、日々授業で「問い」についてばかりを考えていたから、「クリエイティブ」という言葉と紐づいて無意識に考え、そして悩むようになったのかもしれない。