言葉を持たない主人公の「言葉の世界」とは。『現実宿り』(坂口恭平)

ひたすらに見えるものが言葉として映し出される。それもとめどなく、みっちりと言葉が詰め込まれている。--いわゆる小説とも違う、「意識の物語」ともいうべき本書は、一読すると分からないが、読み進める内になんとなくわかって見えてくるような、感覚として味わう作品だった。
「私たちは言葉を持たない。これは人間の言葉で、わたしたちの感情を表に出すことはできない」
論理なんてものはまるでない。主人公というものがあるのならば、読み手は砂になり、鳥の目となり、心臓の一部になりながら、意識の流れをたどっていく主人公に伴走していくのにやっとだろう。それぞれをそれぞれとして比べることすらできない。読んでいると、まるで自分が「三次元」という世界から「一次元」という意識へと化したかのような気分になってくる。
そしてまた、著者である坂口恭平氏の日記でも読んでいるかのような気分になった。実際の日記がどんなものなのかは知らないのだけども。
ただ、ふらふらと、しかし強い衝動をもって生きる坂口氏にしか書けないようなこの文体を読めば読むほど、個人の日記を盗み読んでいるような気分になった。
日記には誰かに見られるという前提はなく、書き進める。誰かにとって分かるように、伝わるようにという意識が取り払われているからこそ、自らの意識をそのままに描くことができる。
そのようにして書かれた文章は、他人が読んでもわからないものが多かったりする。その一見分からないところが、日記らしさであり、坂口恭平氏の日記らしさなのだ。--もし彼の日記というものがあるとすれば。
つまるところ、人の意識なんてものは、案外そんなものなのかもしれない。普段の思考や、とりわけぼーっとしているときなどは、それをもし文字に起こそうとしたと考えた途端に身構えてしまうほどに、移ろいゆく、「そんなにわかりやすいもの」ではない。
「わたしたちは悲しいのだろうか。それとも喜んでいるのだろうか。
わたしたちは伝達することができないばかりか、自分たちでもそれが分からないのだ。」
きっとこれは、「文章を書く」ことに抵抗のある人には分かってもらえるかもしれない。作文を書くのに困っている人に対して、「思っていることをそのまま書けばいいのよ」なんて言われたこともあるかもしれないように。
「わたしたちが感じていることがなにか分からない」--そんな無機質とも言える世界の中で、「わたし」が意志を見せる場面がある。
「わたしはわかっていたと思う。自分の体が生理的に感じていることをそのうちに信じなくなってしまって、あなたを信じているという言葉を信用するようになっていた。でも、あれからずっと考えたの。わたしの憎しみってどこから来るんだろうって。わたしはそんなに何を怖がっていて、目を伏せようとしていたのか。もう一度、わたしはこの目でみようと思ったわ。ちゃんと言葉にしてみようと思った。」
「今度は自分の番だって、思ったのよ。」
現実で生きれば生きるほど、言葉ほどあいまいなものはない。『現実宿り』は、そんな風に「現実に宿りきってしまった」”わたし”が、「言葉にしよう」と意志をもって目の前の現実を切り開いて表現していく物語ともいえる。
--もはや『現実宿り』は読むこと自体が体験だ。