最悪の状況から見える正常な狂気。『一九八四年』(ジョージ・オーウェル)の思わず信じられてしまう世界とは

「正気かどうかは統計上の問題ではない」ーー精神状態が「狂気」であることが正常とされるのが、『一九八四年』の世界。

さっそく、「なんだかちょっと信じられない」というSF設定ぶりですが、「ちょっと信じられてしまう」という気持ちに読み終えてみると少なからずなっています。

内容としては、こんなあらすじ。

“ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。
(Amazonより)

「歴史の改竄」とは、ひとことでいうと「歴史を書きかえる」ということです。そう、一九八四年の世界では、狂気であること、歴史は記憶によるものではなく書きかえられたものであること、独裁国家の三つの要諦「戦争は平和なり」「自由は隷従なり」「無知は力なり」ーーその全てが「正しい」とされているのです。

「ASIAN KUNG-FU GENERATION」の後藤正文(Gotch)さんは、『一九八四年』について、こう言います。

文学が最悪の状況を書き留めることで、私たちは最悪の状況の何たるかを知ります。
それは、おぞましい結末が現実に起きないための、防波堤の役割を果たします。
「実現しない(あるいはさせない)予言書」として、多くのひとに呼んでいただきたい小説です。
(文庫本の帯より)

徹底的に細部まで描かれることで見えてきた『一九八四年』の世界は、あざやかにその「おぞましさ」を伝えます。信じられるものとしてあるように、その人にとっての世界とは、思考によって見えている世界だ、とつくづく思わされる作品だったなあと。

ただ、過去の戦争を「狂気の沙汰でしたね」と振り返るように『一九八四年』を読んでしまってはいけないなとも。なぜならそれは、「本当の理解」にはならないからです。

科学哲学者の村上陽一郎氏は、歴史的な過去は「異文化」である、と言います。

わたしは歴史的な過去は「異文化」だと思っています。現代の価値観を保ちながら過去に接すると、たくさんの愚かな部分が目に付くでしょう。ただし、それは歴史家のやるべきことではない。

過去を理解しようとするならば、われわれは合理性などの現在の価値観を保ちながらではダメなのです。少なくとも歴史家の観点からは、多元主義は絶対に必要だという主張はできると思っています。
(『WIRED Vol.27』より)

「異文化」だからこそ、現代の価値観ではなく、その状況を基準におかなければ理解できるということはないーーこれは過去の戦争にも、『一九八四年』の世界にも言えることでしょう。そのため、『一九八四年』はそのリアリティによって「ちょっと信じられてしまう」くらい「理解できてしまうもの」です。

いやいや、だからといって僕は今度会うなり「無知は力なり」と言ったりするように「狂気と化した」わけではありません。(いくらかその狂気を持ち合わせていることは否定できないけれども。)

逆に、その「間違っている」と思っていることが圧倒的説得力をもって「正しい」という視点から今ある価値観をみて見ることの新鮮な価値を感じました。

他にも、50年以上も前に書かれたとは思えないほど、新鮮な驚きすら感じる内容には、さすが名著とされる貫禄があるなあと。

最悪の状況から見える、最高の状況も、きっとあるはず。

ここまで読んでくださった人に、ぜひ読んでみてほしいなと思いました。