ふと時間が5分とか、10分とかに空いたときにすることはなんだろうか、と考えたことはなかった。
そんなわけで少し意識的に自分や、街ゆく人、電車を待つ人を見てみた。ニュースアプリを見たり、LINEを返したり、「よく聴くアルバムにしようか、最近リリースされた曲にしようか」とふと1分くらい考えてイヤホンから流れる曲をセットして聴いたり。なんでもないような時間には、ふだん予定として組み込まれることはないことを、僕らはしている。
そして今、ふと1時間という時間が空いて、あてもなく書き始めた次第である。1時間という時間は、5分、10分と比べるとだいぶ長いので、「せっかくだからじっくりとできることをしよう」なんて考えてすることを決める。だから、「ちょっとした時間にできること」とはちがったことをすることとなる。本を読んだり、まとまった文章を書いたり、部屋の掃除を始めたり。
「空いた時間」はそんなに好きではなかった。といっても、小学生のときだったが。小学生のときは週末になると、土日がぽっかりと空いており、特にすることもなく、ヒマをもてあまりしていることが多かった。
多くの友人は家族で買い物や旅行に行ったり、習い事や行ったりとしていたのだけれども、僕はそんな予定はなかったので、ヒマそうな友人の家に「今日〇〇くんいますか?」と片っぱしから電話をかけていた。
もちろん何人かはヒマしている友人はいたので、だいたいの場合遊ぶ人を見つけては、一緒に野球をしたり、ゲームをしていたりしていた気がする。
ただ、困ったのはゴールデンウィークなどの長期休暇だ。
みんなほとんどそこには楽しみな予定があって、いくら学校で「空いてる?」とたずねても、ヒマしている友人が見つかることはなかった。
とうとうヒマであることが苦痛になってきたので、結局野球を習い始めることにした。
それからは毎週末は1日中野球にひたり、小学校、中学校と進んでいく中、部活動や勉強等で週末に空いている日はどんどんとなくなっていった。たまに雨などで野球のグラウンドが使えないため、ぽっかり休みができることがあり、ヒマであることをずいぶんありがたく思ったことだ。ヒマであることは、「避けたいもの」から「ありがたいもの」へと変わったのだ。
さてさて、それから10年以上。やりたいことは増え、暇つぶしはヒマが足りないほどに増え、するべきことも無数にある中、こうして休日を過ごしている。
だから1時間も空くと、「おおっ」と思わず内心目をみはるような思いになる。そして5分、10分すら、「すき間時間をどう使いましょうか」と考えるようになっていたりする。
また、暇と退屈はちょっと違うものを指している。ふと時間が空いた時に、「ありがたい」と思うのであればそれは「暇」であり、「避けたいもの」と思うのであればそれは「退屈」だ。
だから小さいときの「暇」は「退屈」であり、今の「暇」は「暇(時間があるということ)」そのものである。だからこそ、「暇」が生まれることを望むようになる。
「暇、暇、暇」と書いてきて思うことは、5分10分空いた時間のことを「暇」と呼ぶことはふだん、ほとんどないということ。
それはきっと、「暇」と声に発した瞬間に、少し重荷に感じてしまうからなのではないだろうか、なんてことを思う。
とはいえ、決して「暇とは言わないようにしよう」とか、「スキマ時間を有効活用しよう」とかいう話ではない。思うのは、ただ時間がそこにあることに対して、感じ方や捉え方はこうも変わり、考える習慣となっていくのだということだ。5分、10分のスキマ時間の使い方を変えることが難しいように、「暇を”暇”や”退屈”だと思うこと」を変えるのも、きっと難しい。
いつもの「あたりまえ」を、「あたりまえ」じゃないと考えるのは、けっこう大変ですね。